名大SF研記録ブログ

名古屋大学SF・ミステリ・幻想小説研究会

東京奇譚集(村上春樹)

東京奇譚集 (新潮文庫)

東京奇譚集 (新潮文庫)

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当時のロシア人に与えられた最大の幸福がごく普通にドストエフスキーを読めることそれ自体であったように、この現代の日本に生きる我々に与えられた最大の幸福がこうしてごく普通に村上春樹を読めることであるというのはもちろんのことで、そんなことは当たり前すぎていまさら言明しても冗談にしかならないのだが、この短編集がまた非常につまらんのだこれが。

まじめな文芸として短編をやろうとすると、それは小説よりもむしろ警句かあるいは一行詩についつい近くなってしまいがちで、この本についてもそういうことが言える。そうなるとその作品は、核となるひとつの文を50枚だか100枚だかに膨らませるために、長々とした文章でくるまれることが必要になってしまう。しかしなお恐ろしいのは、そうした長々とした文章を延々読ませるだけの能力に、村上春樹が長けすぎているという点にある。あまりにも読みやすすぎるので、結局のところ読めてしまうのだ。

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以下に、収録された五編についての感想めいた文章を短く書く。

一編目の『偶然の旅人』は、「僕=村上はこの文章の筆者である」という一文から始まる本当にあった系の話で、そういった作品の多分に漏れずささやかな内容である。話の中身はワーオこんなすごい偶然に出会っちゃったよというだけのもので、それを盛り上げるために村上春樹らしいエモい脚色が加えられている。

次の『ハナレイ・ベイ』は息子を失った女性の生きていく姿を描いた話で、喪失がもの悲しく描かれている部分もあり、喪失がかっこよく描かれている部分もあり、村上春樹らしい自意識のもたれようが前面に出た作品になっている。これが息子のタカシを失った女性の話ではなく恋人の直子を失った男性の話であったとしたら名状しがたいとは思うが、実際のところ描かれる内容自体には大差ないので問題ない。

三編目の『どこであれそれが見つかりそうな場所で』は、狭く苦しい現実の世界から逃げ出したりまた戻ってきたりする人々――を遠くから観察しようとしている不思議な男の話で、収録作の中ではもっともよく現実とファンタジーが融合したものになっている。そこらの週刊誌で連載されているような不思議系の連作短編漫画にさらっと紛れ込ませても違和感がなさそうなくらいではある。

四編目の『日々移動する腎臓のかたちをした石』では、己の知らない間に勝手に移動する奇妙な石を表象として、主人公の人生と恋愛に関わる問題と解決が描かれている。表面的には男女の関わり合いの話だが、主人公の男は短編小説を書く作家であり、書き上げられる作品が現実の自分にいかに影響されるかという内容を描いてもいる。奇妙な石は彼の書く小説の中の存在なのだが、彼自身の心の移り変わりにそってその石の運命と正体は変化していき、彼自身の問題が解消されることによってその奇妙な石も消失する。村上春樹はその奇妙な石を、主人公の書く小説の中の存在としてではなく、実際に主人公の周囲に実在する物体として描くこともできただろう。しかしこの話をそうしたファンタジーにせず、主人公の自己とその作品を対比させたのは、村上春樹が小説についての小説を書こうと思ったからなのだろうと思われる。ただその内容はささやかなものではあるが。

最後の『品川猿』は、自分の名前を思い出せなくなった女性の話で、最終的には、その原因が自分が過去に使っていた寮の名札を猿に盗まれたことにあると判明する。その猿は名札を盗むと同時にその人物の苦しみをも少し持ち去っていくのだが、それはおそらく ID に依存しそのしがらみに囚われる現代社会あるいは我々の姿を映したものであり、ただそれだけである。

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この短編集では、これら五編は以下のように並べられている。

  1. 偶然の旅人
  2. ハナレイ・ベイ
  3. どこであれそれが見つかりそうな場所で
  4. 日々移動する腎臓のかたちをした石
  5. 品川猿

個人的には、『偶然の旅人』を冒頭に持ってくることには賛同しがたい。この作品は上でも述べたように本当にあったという前提で書かれたものであり、ファンタジー色の強い作品が多いこの短編集では、そうした出だしで始めてしまうと焦点がぼやけてしまうように思える。

ただ、もしかすると、村上春樹はファンタジー色の強い話を始めるための前置きとして、現実とファンタジーの橋渡しのようにこの作品を冒頭に配置したのかもしれない。そうだとすれば、その考え方自体は理解できる。しかしこの『偶然の旅人』に続く『ハナレイ・ベイ』はまだまだ現実によった話で、ファンタジー的な内容が実際に描かれたものではない。そのため、個人的には『ハナレイ・ベイ』をこそ冒頭に持ってきたいと感じる。

そうすると、『偶然の旅人』はどこに配置すべきか。現実について言及するこの作品は、やはり現実と繋がるどこかに置いておきたい。そうなるとまず浮かんでくるのは冒頭か末尾かだが、冒頭に置くことは既に否定した。では末尾に置くべきかというと、そうではなく、この作品は『日々移動する腎臓のかたちをした石』のひとつ前に並べたいと考える。『日々移動する腎臓のかたちをした石』は、小説の中で小説に対して言及した作品である。『偶然の旅人』をその前に置くことによって、ファンタジー色の強い作品群の中で現実世界のことを振り返らせ、『日々移動する腎臓のかたちをした石』の構造を見渡しやすくできればいいと思う。

また、本来の末尾にきているのは『品川猿』であるが、この作品はいくぶん説教じみたところがあり、個人的にはあまりこのような読書の終え方をしたくはない。個人的に末尾に配置したいのは『どこであれそれが見つかりそうな場所で』である。この作品は淡々と進行し、結末にしっかりとした解決が用意されているわけでもない。他の作品にはおおむねポジティブな指向とともに幕が下ろされるが、この作品はどこにも行かない。主人公の男の目的は達成されず、また次の目標を探してそれに向かうことになるだろう。きっちりと閉じられない結末にはむしろ解放が感じられ、この短編集の末尾にふさわしいと考える。

これらのことを踏まえて並び替えると、以下のようになった。

  1. ハナレイ・ベイ
  2. 品川猿
  3. 偶然の旅人
  4. 日々移動する腎臓のかたちをした石
  5. どこであれそれが見つかりそうな場所で

もちろんこんなものは素人仕事のただの遊びで、この短編集をこのような並びに変更せよと申し立てるわけではない。単なる長々とした冗談に過ぎない。

これらの小説の作者は村上春樹であるし、村上春樹はおよそ比べものにならないような高尚な思想のもとにこれらの小説を配列したのだろう。村上春樹がジャズを非常に好んでいることはよく知られていて、彼は小説についても音楽的なうねりという表現で語ることがある。音楽のアルバムがその配列に意味を持っているように、村上春樹の自作の配列に対する意識も並々ではないだろう。おそらく。

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この本をことさら他人にすすめようとは思わない。最初にも述べたように、この短編集はつまらなかったと感じている。しかしそれでも普段の村上春樹どおりの独自の空気感は得られるし、作品に対する村上春樹の美意識も伝わってこないわけではない。いずれにせよ本を読めば時間はつぶせるし、時間を潰すためには、この村上春樹の文章の恐ろしいまでの読みやすさはありがたい。ハードカバーで1400円ならば躊躇はあるが、文庫になって400円ならば悪いものではない。本当に暇で暇でしかたがないのであれば、悪くはない。

(上木)