名大SF研記録ブログ

名古屋大学SF・ミステリ・幻想小説研究会

『幼年期の終わり』書評+SF初心者(俺)からSF初心者(you)への第一歩の示唆

幼年期の終り (ハヤカワ文庫 SF (341))

幼年期の終り (ハヤカワ文庫 SF (341))

 海外SF御三家と呼ばれている作者の作品。50年以上前の作品ながら、未だ意識される作品である。高校で読んで以来の再読であったが、ただ面白かった当時とは違い、いろいろと思うところの大きい本となった。
 まず、もちろん、"ただ面白い"作品であることは間違いない。クラーク作品の代表としてだけでなく、SF作品の代表としてもお勧めできる。SFの面白さを知りたいと思ったときに読む本として最適に近いと言えよう。
 ではそのSFの面白さとは何か。非常に難しい問いである。SFというジャンルが成立して以来ずっと問われ続けて来たことであるし、その結果SF内部でさらにジャンルの細分化が行われてもいる。しかし、『幼年期の終わり』は間違いなくSFの面白さを持っている。そこで逆に、この作品の面白さはSFの面白さだ、と言えるだろう。
 ごく簡単に言うと、『幼年期の終わり』とは、超科学文明を持つ宇宙人によって地球人類が監視される、というストーリーである。超科学を目の当たりにした地球人がどんな反応をするのか。宇宙人の正体、そして目的とは。そして結末において人類がどうなるのか。常に先に読み進めたくなる作りになっていて、SFの面白さうんぬん以前に、物語の完成度も非常に高い。
 よく誤解されていることだが、科学なガジェットが使われる作品がSF、ではない。未来っぽくするために科学的ガジェットを使うのではなく、何のためにSFであるか、が問題なのである。SFの面白さを定義することは非常に難しいが、少なくとも、面白いSFと言うからにはそれが必要であるはずだ。そして『幼年期の終わり』にはそれがある。
 基本的に、本書を読んでいる最中に生じるセンスオブワンダーは、オーバーロードの存在というただ1つの要素による現実との乖離だ。オーバーロードとはあらすじで述べた超科学の宇宙人の事であり、彼らが出現したときに人類はどんな反応をし、どんな形で落ち着くのか。あたかも化学実験のごとく、物質Aに物質Bを混ぜたときにどうなるのか、という風な。異質なものと接触させ、変化させてみたときに、何が変わって何が変わらないのか。『幼年期の終わり』において、変化するのは人間および人間社会である。そうして、人間の本質を浮き彫りにしていく。こういった手法はなかなかSF以外の他の分野ではとりづらいものであろう。さらにまた、企業や国家などではなく、地球人類全体が対象とあっては、これはもうSFでなければ描けない物語である。
 そしてまた、この作品は、物語の最後にもう一つとても大きな問題提起をしていく。タイトル通り、人類は幼年期を終え新たな時代へシフトしていくのだが、幼年期まっただ中である読者含めた旧人類には全く理解できない世界へ旅立ってしまうのである。うっかりネタバレしてしまうかもしれないので書きづらいのだが、その問題提起とはおおむねこういう事である。
「いつか幼年期に終わりが来るのなら、そして今このときが幼年期であるというのなら、いつか終わりの時に無意味になってしまうかもしれないことをする事に何の意味を見いだせばいいのか」
(このほかにもう一つ、オーバーロードを人類の一面の比喩と見立てた場合に起こる大きな問題提起があるのだが、そちらは割愛する事にする。)
 もちろんこの問いは成長に関する普遍的な問いであり、さまざまな"幼年期"の終わりを見たり、考えたりするたびに、SFファンはこの作品を、この問いを思い出すのである。そしてまた、どうにも僕には、SFシーンそれ自身がこの問いに答えているように思えてならない。
 SFというジャンルが意識されなくなって久しい。10年ではきかないし、下手をすると20年前からそうだったかもしれない。もはやテレビドラマにすらSFと呼べる作品は存在するし、小説や漫画ではもはや特徴として紹介されることすらない。現在ではSFとは、数多くある、物語の性格付けの一面としての役割の一つにすぎない。この状況がつまり、SFが幼年期を脱した姿なのだ。
 かつてSFは、SFたらんとして書かれていた。SFを専門に扱う文庫で出版され、SFファンが読む物だった。SF界という社会の中で完結し循環していた。それはまさに、『幼年期の終わり』で語られる、幼年期の人類の姿と重なるものである。途中経過に何があったのかはここでは考察しないが、現在、とうに幼年期を脱したSFは、立派に"社会の一員"として社会に加わっている。
 さて、それでは先の問題提起を改めて思い出す。このたとえになぞらえれば、こうなる。
「SFの幼年期は意味のないものだっただろうか。」
 確かにオーバーマインドたる現代文化は、かつてのSFの幼年期を忘れてしまっている様に見える。単に要素としてのSFには、幼年期の意味は見いだせない。だがしかし、SFという価値観・視座は幼年期によって築かれた物である。そして、価値観にまで根ざした物語は、未だにしばしば存在する。そこには、幼年期が存在した意義を見いだすことができる。
 これは何もSFに限った話では無いはずだ。様々な分野が複合して、現在の文化が出来ている。そこに産まれた我々は、逆に、幼年期を知ってはじめて現在を120%楽しめるようになるだろう。まずSFの幼年期を知るために、また、観念的な話だけでなく、こういった"成長"というテーマをSFの名手がどう描いているのか。まずこの作品を読んで、ぜひ何らかの感想をもってもらいたい。そして知った上で、我々の手で新たな幼年期を終わらせるのだ。