名大SF研記録ブログ

名古屋大学SF・ミステリ・幻想小説研究会

九月病(シギサワカヤ)

九月病 上 (ジェッツコミックス)

九月病 上 (ジェッツコミックス)

えちぃ話じゃないです、多分。
銀行に勤める伊坂広志は、仕事もでき、人当たりも良く容姿端麗。他人からは非の打ち所のない人間として見られるが心に深い傷と苦しみを持つ。 そして、広志は実の妹である真鶴と関係を持ち、その事に罪悪感を抱きながらも夜な夜な関係を続けていく。 そんな、二人の壊れた関係を知らない海老沢碧は広志の心の奥底にある深い苦しみに触れる。そして後輩の幹本を広志が拒絶した夜、海老沢は初めて彼の苦しみの一端を知り、広志に犯される。
なんだ、その昼ドラ。うーん、あらすじだけ書いちゃうと確かにそうなっちゃいますね。でも、この作品はドロドロでも悲観的でもない。暗いけど、笑えて、繊細でシックな絵柄と相まってただ美しく話が進行していく。作者から言わせれば「禁断の愛と母性本能の鬼と個性的なカレーの話(ex.柿入り)。だよ☆」だそう。まぁ、詳しいストーリーについては読んでみてください。これからとり上げたいのは
「なぜこのあらすじで悲観的にならないのか」
全ては、海老沢さんの存在のお陰です。
「柿カレー」と並んで、「海老沢さん」は作品・作者名よりも先にはてなダイアリー化されたワードです。そして「兄貴」と言えば、広志というより海老沢さんを想起するというのが通説です。何が言いたいかって、海老沢さんは男らしく人気があり、広志は優柔不断で人気がないんです。いわゆるギャルゲ主人公のノリなんです、彼は。もし、海老沢さんが犯されたことにより悲劇のヒロインなりなんなりを演じたら、そこでこの作品の色は壊れました。当然そうしなかった海老沢さん。チョイスした行動はコンビニで買った肉まん食べながら、罪悪感に潰れそうになる主人公に励ましの電話をかけることです。格好よすぎるでしょ。
もう一点。合間合間に挟まれた軽快かつセンスのいいギャグが、ともすれば悲観的になりがちな作品をぐっと引き上げています。「柿カレー」なんかもそう。読んでる間も、決して暗い鬱々とした気分になることはありません。いや、別にそれが悪いことではないんですけどね。気分が落ち込んでるときでも結構スッキリ読める作品です。
また、この作品、技巧としては台詞以外の言葉が(多くはその場に即した哲学的かつ観念的な)多くコマの中に散りばめられています。だから、読んでても漫画というよりは絵入りの小説や詩のような感じを受けるんですよね。また、それがこの作品のおもしろいところかと
で、悲観的じゃないから内容が薄いのかというとそんなことはないです。罪悪感を抱きながらも、過去の傷から実の妹を抱く兄・広志。小さいときから「いけない子」と言われて育ってきて、兄への屈折した愛を抱く妹・真鶴。広志に犯されながらも完璧に見える広志にかいま見た過去の傷が心配で、色々と世話を焼く海老沢。それぞれの思いが、あり方が交錯して深みを生み出す。薄くはない、浅くもない。でも、読んでいて鬱々とすることはない。繊細な描写と大掴みなテーマとの絶妙のバランスの上に成り立つ作品。それがシギサワカヤの「九月病」なのである。
「……ああ、生きてるのって、めんどくさいなあ……
でも、すこしだけ、こーいうのは…すきかも……」
by伊坂真鶴(九月病)(坪田)