名大SF研記録ブログ

名古屋大学SF・ミステリ・幻想小説研究会

レ・コスミコミケ(イタロ・カルヴィーノ)

レ・コスミコミケ (ハヤカワepi文庫)

レ・コスミコミケ (ハヤカワepi文庫)

いまや遠くにある月が、まだはしごで昇れるほど近くにあった頃の切ない恋物語「月の距離」。誰もかれもが一点に集まって暮らしていた古き良き時代に想いをはせる「ただ一点に」。なかなか陸に上がろうとしない頑固な魚類の親戚との思い出を綴る「水に生きる叔父」など、宇宙の始まりから生きつづけるQfwfq老人を語り部に、自由奔放なイマジネーションで世界文学をリードした著者がユーモアたっぷりに描く12の奇想短篇。
(アマゾン内容紹介より)

作家は、現実のいくつかの局面を我々に気づかせてくれる。これは小説の認識的な側面であり、それを私はカルヴィーノを通じて知ったのである

さて、上述の言葉はカルヴィーノの友人でイタリアの歴史家であるカルロ・ギンズブルグの言葉です。この言葉を出すのであれば、もっと他の作品を取り上げるべきだったかもしれませんが。

とはいえ、Qfwfq老人の語りはある事件にあった証言者の語りそのものです。つまり、主観的で恣意的で、かつ時おり矛盾をはらんでおり断片的であるということ。事件史に対して、平凡な日常の観点から歴史を描き出すミクロヒストリーというものは歴史学においては比較的新しい試みだと思いますが、小説はそれを早くから、しかもより高度に実践していたのは言うまでもありません。大きな枠組みで事件を扱っていた歴史学にしてみれば、今まで重要でなかった一人の平凡な人物の時代に対するまなざしというものは、新しいものです。

Qfwfq老にしてみれば、ビッグバンという一大事件も、その原因はある女性がスパゲッティを馳走したかったからということに他ならない。

一方でこういったものを生み出したカルヴィーノのイマジネーションというものがある。いくつかの科学の知識と彼のイマジネーションが融合していて、そこには確かに面白さがある。もとになってるいる科学の知識を持っている人はカルヴィーノの料理の仕方にニヤリとするかもしれません。Qfwfq老の大風呂敷にはあきれを通り越して笑うほかありません。

しかし「自由奔放なイマジネーション」と論評されているのをみますが、これはどうなんでしょうね。なるほど、確かに奇抜で面白いといえるかもしれません。しかし、もろ手をあげて賛美することはできないと思います。あまりにも話が突拍子もなさ過ぎて「なんだコレ?」と思う人もあるのではないかなと思います。この種の作品は、大きく好き嫌いがわかれるのもまた事実のなのではないでしょうか。

最後に、彼の語りですね。非常に幻想的で美しい作品が収録されていると思います。「月の距離」「水に生きる叔父」などの作品には一抹の切なさがある。これだけ秩序のないというか、なんでもありな世界でもそういった哀愁をひく話になっているというところがミソなんじゃないかなと思いますね。

人によって評価のわかれる作品だとは思いますが、個人的にはお薦めです。(三笠)