ゾンビ ? ドーン・オブ・ザ・デッド 〜ダリオ・アルジェント監修版 [DVD]
- 出版社/メーカー: ハピネット・ピクチャーズ
- 発売日: 1999/10/25
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というわけでこないだひさかたぶりに観た『ゾンビ』の感想を書くことにする。書きかけ上げとくけど戻ってきたら加筆するっス。
作品について
『ゾンビ』の原題は"Dawn of the Dead"、『ナイトオブザリビンデッド』『デイオブザデッド』と並びロメロ監督のゾンビ三部作と呼ばれたり呼ばれなかったりする。あと、これをもとにさまざまなショッピングモール作品が作られたこともまた周知の事実ですねっと。
サクッと周辺のことをまとめて、次は未鑑賞者向けにおおまかなストーリーを説明。
主人公は4人で、テレビ局に勤めるフラン(紅一点)とその恋人でヘリ操縦士のスティーブン、SWAT隊員その1いつも冷静なピーターと、その2快活なロジャー。その4人が混乱する街をヘリで脱出し、郊外のショッピングモールにたどり着くわけ。
大量に生活必需品のそろったモール。しかしその中は、彼らの生前の習慣からかゾンビで埋め尽くされていました。4人は自分たちの知恵と武器を駆使し、モール全体を占拠して安全な環境を作ろうとする。彼らの試みは一旦成功する。がしかし。
ゾンビとはなにか
理不尽な存在として
ゾンビがなにかっつーと不自然理不尽の固まりなワケだ。動き回る屍。コミュニケーションの不可能さ。食われたら自分もまた彼らと同じになってしまう状況。
この作品においてそういった理不尽は説明されない(絶対の解答が与えられない)が、だからこその理不尽なのであって、ベールを剥がせばそこには何の不思議もなくなる。*1ゾンビ蔓延の候補は作中で一応二つ挙がる――しかし、テレビの向こうで科学者の言うほうにはいまいち説得力がない。彼らが何を言っても、扉の向こうで奴らがズルズル動き回っている状況に変わりはないからだ。それより「地獄がもう満員なんだ」という夢幻的な一言のほうが、自体の現実離れさと相まって説得力を持つ。
死体が起き上がって動き回ることがそもそもありえないのだから、どんなにありえないと思うことでも(地獄が定員オーバーを起こした、とかね)その理由になるのだ。
しかし真相がどちらにあるにせよ、そこは決して重要ではない。主人公たちはゾンビを倒したり真相を知ることでポイントが入るゲームをプレイしているのではない。彼らが目標とするのはあくまで「ゾンビ」という状況に対応し、それまでの自分たちの人間的な生活を取り戻すことである。ゾンビを楽しんで殺す必要はなく、あくまで自分たちのために排除するだけなのだ。
大地震に遭ったあとで「初期微動が短かったから震源地近かったなどこだろワクワク」なんて考えるだろうか。台風に翻弄される最中、熱帯低気圧について思いを馳せるだろうか。答えはもちろんノーである。ひょっとしたらテレビやら何やらでそれらを知ることはあるかもしれないが、今対処すべき問題はそこではない。この作品においても同様で、それがまた明確な説明がなされない理由のひとつでもある。
説明がされないことは、ことゾンビものにおいてプラスになりこそすれマイナスには働かない。
以下加筆予定
戯画として
SFであるということ
もちろんこれはSF作品である。がそもそもSFと非SFを分けるにはどうすればいいか。なんや舞台が非日常だったりロボットやらなにやらケッタイなモンが仰山出てくりゃSFですか。断じて違う。そう、断じて違うのだ。大事なことなので二回言いました。
ロボットやらタイムマシンやらピカピカしたスゴイ光線銃なんてガジェットはそれ自体SFを構成する要素ではない。そしてそれらが動作する理由・説明だってそれだけでは意味がない。大事なのはそれらの必然性を把握すること、考え方である。ガジェットひとつであってもその必然性、なぜそれでなくてはならないのか、それが物語にどう影響を与えていくのか。それのない話はSFとは呼べない。設定と裏話に淫した物語には魅力を感じない、そこにはスペキュレイティブがない。
以下加筆予定
ゾンビジャンルについて
ゲームの限界
ホラーと笑いについて
*1:『変身』だってグレゴールが虫ンなったわけは説明されなかったじゃんよ