名大SF研記録ブログ

名古屋大学SF・ミステリ・幻想小説研究会

ゼロ年代の想像力(宇野常寛)

久々に部室行ったらOBがゴキゲンな本のゴキゲンな書評を書いてくれていたので転載る。やや長いので続きを読むをクリッコ。

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

 SFマガジンに連載された評論を単行本化したもので、宮台真司が帯に推薦文を書き、東浩紀も同書を高く評価している。で、読んでみたら『ゲーム脳の恐怖』並みのクソ本だった。批判よりもむしろ添削に値する。以下、その理由を述べる。
 著者の宇野常寛は、本書で東浩紀ポストモダン論を批判している。東の理論とは、ポストモダンになると大きな物語が衰退して人はみなデータベース的動物になるという、例のアレだ(『動物化するポストモダン』参照)。それに対して宇野は、大きな物語が衰退すると価値観の拠って立つ基盤が失われるため、人はみな「究極的に無根拠であることは織り込み済みで『あえて』特定の価値を選択する」「決断主義者」になり、他の価値観を排斥しようと「バトルロワイヤル」を展開する、と主張する。
 これって変じゃないか。というのは、宇野の言う「決断主義者」とか「バトルロワイヤル」とかいうのは、ルネサンスから始まって現代に至る、いわゆるモダンといわれる時代の特徴にそのままあてはまってしまうものだからだ。
 東が下敷きにしているのは、おおざっぱにいえば次のような歴史観だ。すなわち、プレモダンにおいては宗教的共同性が価値の階層的な秩序をがっちりと定めていたので、人は何が正しくて何が間違っているのかを簡単に判断することができた。ところがモダンになると宗教的な基盤が弱体化し、正誤の判断は各自の責任(決断!)に委ねられるようになり、結果として民主主義、自由主義、価値相対主義などの理念が生まれることになる(ぼくの持っている有斐閣アルマの『法哲学』にも同じようなことが書いてあるから、これはまさしく教科書的な見解でもある)。『方法序説』を読みなおしてみればいい。「決断主義者」の「究極的に無根拠であることは織り込み済みで『あえて』特定の価値を選択する」態度は、実はデカルトの第二の格率と全く同じものだ。
 ところで、東のデビュー作『存在論的、郵便的』は、すでに超越的な価値基盤は失われたはずのモダン期において、価値基盤の「不在」そのものが一つの超越的な価値として機能してしまうという、複雑怪奇なメカニズムを分析したものである(このメカニズムを東は「否定神学」と呼んでいる)。
 だから東が「大きな物語」の衰退と言うときは、この否定神学的メカニズムの崩壊を射程に入れている。『動物化するポストモダン』において東が「二〇世紀とはひとことで言えば、超越的な大きな物語はすでに失われ、またそのことは誰もが知っているが、しかし、だからこそ、そのフェイクを捏造し、大きな物語の見かけを、つまりは、生きることに意味があるという見かけを信じなければならなかった時代である」と述べているのは、その辺の事情を説明したものだ。つまり東は、現代においては、モダンを根底で支えてきた否定神学的メカニズムが崩壊することによって、人間社会がポストモダンという新たなフェーズに移行しつつあると主張しているのだ。
 では宇野は「決断主義者」や「バトルロワイヤル」というモダン的概念により東のポストモダン論を否定することで、「世界は簡単には変化せず、モダンはまだまだ続くのだ」と言いたいのだろうか。違う。宇野は本書で、九〇年代ごろを境に社会に大きな変化が起こったことを何度も主張しているからだ。そもそも宇野自身、本書のなかで現代社会を「ポストモダン」と呼んでいたりもする。ならば宇野の議論は、しばしば語られる日本特殊論――日本は他の先進諸国と異なりいまだプレモダン的な特徴を多く残しているので、モダン化を推進する必要がある――に近いのだろうか。それも違う。宇野はわざわざ九・一一テロやグローバル化に言及することで、その変化が全世界的なものであることを強調している。では宇野は、何を言わんとしているのか。
 筋の通った解釈はただ一つ。宇野は「大きな物語」をプレモダン的な価値基準と混同し、それが九〇年代に至ってようやく崩壊したと思っているのだ。言いかえれば宇野がポストモダンと思っているものは、単なるモダンなのである。よって彼は、この誤解ゆえに、九〇年代以前をプレモダンであるとみなしてしまう。

 でもそのかわり、私たちは自由な世の中を手に入れた。かつては、神様がいて、それに従うにせよ反抗するにせよ大きな基準(物語)を示してくれた。そして今は、私たちはいつでも好きな神様を信じ、いつでも見限ることができる。自分で考え、試行錯誤を続けるための環境は、むしろ整いつつあると言えるだろう。ついでに言うと、私はこの(冷たいかもしれないが)自由な世の中が、たまらなく好きだ。

 通常の解釈に従えば、神様が大きな基準を示してくれるのはプレモダンであり、自分で考え、試行錯誤を続けなければならないのがモダンである。宇野はここで自由を謳歌しているが、それも当然だろう。彼は九五年頃までプレモダンにいたのだから。読者のぼくらはといえば、生まれたときからモダンのただなかにいたのだが。

……ハピネス三茶は、社会からも歴史からも切り離された閉じた世界だ。だからこそ人々はそこで、かつて「大きな物語」が隠蔽していた、日常という物語、そしてその延長線上にある生と死という物語に対峙していく。
(中略)
 私たちは生きているだけで物語に接している。ただ、世界からそれを与えられることになれてしまった私たちは、自分でそれを見つけ出す方法を忘れてしまったのだ。私たちはむしろ、大きな物語を失うことで小さな物語を生きることを思い出せるようになったのかもしれない。

 引用部は『すいか』というTVドラマについて語った部分である。どうやら宇野は、九〇年代以前の人間は生と死について考えなかったとでも思っているらしい。ここで彼は、もはや思想史的な無知には還元できない、驚くほどの現実認識の浅さを露呈している。
 またこの引用部をよく読むと、超越的な「大きな物語」の「不在」がかえって超越性として機能するという、否定神学的メカニズムが見て取れる。同書の続く部分で、この否定神学性はよりあからさまになっていく。

 彼らは一様に「死」「終わり」といったファクターを導入した作家だった。彼らの描く共同体は、決して永遠のものでも唯一のものでもない。その発生から「終わり(死)」が刻印されている。だからこそ、その一瞬に限られた共同性は入れ替え不可能なものとして機能し、超越性として作用する。

 東が言うように、否定神学的メカニズムはモダンに特有のものだ。よって宇野の言う「ゼロ年代の想像力」とは単なるモダンの想像力なのであり、それはゼロ年代のはるか以前から存在しているものである。
 このように宇野は不勉強で現実認識が希薄であり、その点だけでも本書は充分クソ本と呼ぶに値するのだが、馬鹿の常としてやたらと上から目線で説教を繰り広げるため、それが読者の苛立ちに更なる拍車をかける。またその説教というのが「自分をあんまり人に押し付けると嫌われるぞ」程度の内容を、「所有の暴力性」だの「モバイル的実存」だのといった造語をちりばめながら延々と垂れ流すものなのである。そもそも「自分を押し付けると嫌われる」のは別に現代に限った話ではないだろうに、なぜ『ゼロ年代の想像力』と題した書物でそのような説教をする必要があるのか。皆目不明である。
 結論。宇野は頭が悪いくせにプライドばかり高いナルシストでしかない。そのことはあまりほめられた内容ではないが、似たような人間はいくらでもいる。サブカルチャーと論壇とネットを見ているだけでは、人間は賢くならないのである。問題はむしろ、東や宮台のような、かつて近代やポストモダンを論じて目覚ましい仕事をした批評家たちが、本書のくだらなさを見抜けなかった点だろう。どうやら、彼らの思考力は本格的に弛緩しつつあるらしく、注意が必要である。(OB:Y)